大好きな猫が亡くなって思うこと

今朝、最愛の猫が虹の橋を渡りました。

16歳。最期まで頑張ってよく生きました。

人間年齢で換算すると、約80歳。

ここ1ヶ月ほど急激に体重が激減し、ここ1週間ほど認知症のような症状が出て、あっという間に動けなくなりつい昨日寝たきりになったばかり。

昨晩は大好きなお風呂のフタの上に乗せてやると、寝たきりなのに「ぐいーん」を手足を伸ばして気持ち良さそうにしていました。最期に一緒にお風呂に入れて良かったね。

そして夜、私と夫の間で寝かせていたところ、朝アラームが鳴る前に、最期の力を振り絞って「もう、お別れの時ですよ」と鳴いて教えてくれて、3回深呼吸した後に静かになりました。

私は子供の頃もペットを飼ったことがなく、この年にして生まれて初めて一緒に生活した動物が、この猫。

「猫飼いたい、猫飼いたい」と毎日つぶやいていたら、当時9歳の猫を飼っている夫と知り合うことになり、そのまま結婚して、猫を飼いながら自宅でフリーランス生活をしていました。

なので、猫が生きた16年の内、7年間、ほぼ毎日24時間一緒に過ごしていました。

いつも一緒にいて、いつもそばにいてくれました。ご飯を食べる時も寝る時も一緒。帰宅すると玄関に迎えに来てくれました。結婚以来、正直夫よりも猫と一緒にいた時間の方が多いくらいでした。

(↑2018年には急に妹ができました。)

でも、ここ1年〜半年くらいは、仕事の合間を縫って週に1、2回病院に通い、偏食が激しくなったので少しでも食べるご飯を探したり作ったりし、飲まないサプリメントを飲ませようとしたり、突然う◯こをあちこちにばら撒かれたり、時には私のベッドで吐いて起こされ、深夜にシーツ交換をさせられたり(笑)

虹の橋を渡る10日くらい前から、昼も夜も激しく鳴く日が続き、病院に連れて行き、ご飯を1日に何度もちょっとづつ変えてあげて、あまりに鳴くのでドアを閉めて仕事をし、打ち合わせをし、トイレをチェックし、病院に連れて行き・・・

↑これらを全て一人でやっていたので、お世話の毎日にちょっと疲れていたところでもありました。

でも、もういなくなると思うと
悲しさしかありません。

本で雑誌でネットで何年も前から
「ペットとお別れする時の角度」
の記事を何度も読んでいたけれど、
何の役にも立ちませんでした。

これまでありがとう
とか、
感謝しているよ
とか

もちろん言葉をかけるし、
感謝の気持ちを持つことは大事だし、忘れません。

だけど、いつも大事な存在が
亡くなった時に感じるのは、

前回の悲しんだ経験は、
今の悲しみに何の役にも立たない、

いくら本を読んで理解しても
何の役にも立たない、

ということです。

悲しみについて個人的に一番納得できる考え方が、作家・村上春樹さんの長編小説「ノルウェイの森」に記されている一文です。

どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。

どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。

我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

本当にその通りとしか言えません。

悲しみからは何かを学びとることしかできない、そしてそれを次に生かすことはできない。

「時間が解決してくれる」とよく言われますが、次の悲しみには「前回解決してくれた時間」は役に立たない。

ということです。

でも、

「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」

です。

命と感情ある人間の使命とは、こうして出会う悲しみに対し苦しんで、そして感謝する気持ちを持ち、悲しみから何かを学び続けることなのかな、と思います。

私もこうして学びながら、これからも生きていこうと思います。

それでは今日はこのへんで。

\お読みいただきありがとうございます/

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