今更だけど「ドライブ・マイ・カー」を観てきた話

だいぶ前の話なのですが、
まだ寒い寒い冬のある日、

映画「ドライブ・マイ・カー」
鑑賞してきました。

今更ここで
説明するまでもないけれど、

「ドライブ・マイ・カー」は、
昨年から今年にかけて
海外の映画祭でも
話題になった作品です。

 

私は村上春樹さんの小説を
全部読んだワケでもないし、
熱烈なファンでもないのだけれど、

村上春樹さんの作品に
いくつか触れると、

性と生、
そして「人の死」に
対する表現を

本当にいつも腑に落ちるように
言語化してくれている

と私は感じています。

 

なので、
鑑賞した「ドライブ・マイ・カー」は
約3時間という長い映画で、
終始物静かで、

何がどう変わるという描き方も
わかりやすいハッピーエンドとか
バッドエンドとか

わかりやすい描き方も
されていないように
感じるので

この映画に賛否両論が
あるのも知っていました。

それでも
最後は涙が止まりませんでした。

それは、
「死」に対しての
解釈の方法が、

私にとっては
とてもわかりやすく
この映画で表現されて
いたからです。

それを象徴する
こんなセリフがあります。

 

(若干のネタバレを含みますので、まだ未鑑賞の方で気になさる方はここでページを閉じてください^^;)

 

 

僕は、正しく傷つくべきだった。

本当にやり過ごしてしまった。

僕は、深く傷ついてしまった、
気も狂わんばかりに。

でも、だから、
それを見て見ぬふりをした。

自分自身に耳を傾けなかった。

だから、
僕は音(妻)を失ってしまった。
永遠に。

今、わかった。

僕は音に会いたい。

会ったら怒鳴りつけたい。

責め立てたい。

ウソをつき続けたこと。

謝りたい。

僕が耳を傾けなかったこと。

僕が弱かったこと。

もう一度だけ話がしたい。

音に会いたい。

もう遅い。

取り返しがつかない。

 

そして最後には、

“ワーニャ伯父さん、
生きていきましょう。

長い長い日々を、
長い夜を、
生き抜きましょう。

運命が送ってよこす試練に、
じっと耐えるの。

安らぎはないかもしれないけれど、
他の人のためにも、
今も、歳をとってからも
働きましょう。

そして
あたしたちの最期がきたら、
おとなしく死んでいきましょう”

というセリフがあります。

愛する人の死に対して
感じること、

そしてその死に対する
解釈。

もちろん人それぞれ
感じ方は違うと思いますが、

私の中では
とても腑に落ちる表現です。

だからこそ、

生きている間に
側にいる人から目を逸らさず
ちゃんと向き合おうと思うし、

生かされている自分達は
辛い気持ちを背負いながらも
一生懸命働きながら
生きていこう

と思えます。

ちなみに、
私が身近な生命の死に
直面した時も

いつも村上春樹先生の
「ノルウェイの森」に登場する
一説を思い出します。

 

どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。

どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。

我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

 

悲しみからは
何かを学びとることしかできない、

そしてその悲しみを
次に生かすことはできません。

「時間が解決してくれる」と
よく言われるし
確かに時間が解決してくれるかも
しれません。

でも、
次にやってくる悲しみに
「前回解決してくれた時間」は
役に立ちません。

でも、

「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」

今命があって
生かされている
人間の使命とは、

こうして出会う悲しみに苦しんで、
悲しみから何かを学び続けること
だと思っています。

こうして学びながら
私も命ある限り
生きていこうと思います。

それでは今日はこのへんで。

\お読みいただきありがとうございます/

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